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会社から離れ、無になれる空間が必要です

私の行きつけの小さな街の喫茶店のお話しをします。この不況の中、しぶとく生き抜いてくれています。一所懸命死に物狂いで頑張ってきた、なんて微塵も感じません。何となく無理せずやってきた。それが淘汰の嵐をかいくぐってきたコツのようです。でも、実はなるほど、と、うならせてくれる何かがあります。

それはオーナーのお母さんの手料理です。ここは日本料理屋さんかと思ってしまうような定食。いもの煮っころがしや、味噌汁を出そうなんてスタバは考えませんよね。それと、こうじゃなきゃいけない、ではない居心地の良さがあります。

効率なんて考えとも全く無縁です。「利益を出して5年に1回はリニューアルしましょう、」そんな話は何それ?で終わりです。お店に日経新聞はありません。スポーツ新聞と週刊誌だけです。経済がどうの円がどうのとも全く無縁です。近所のおじいさんおばあさんが朝から入りびたっています。

先日クーラーが壊れました。壊れる前にリニューアルするのでなく、ダメになってから考えりゃいい。常連の電気屋さんが売れ残りを持ってきてくれます。クーラーのない何日かは昔をなつかしんだと思えばどうってことありません。

三方よし、が健全です。それで何とかなるようです。利益や効率を追求しているとせちがらくなります。誰も助けてくれなくなるし、零細企業でそれを始めるとあっという間に淘汰されてしまうような気がします。

チェーン店がクーラーを取り替えようとすると、何社も見積を取って、一番安いところに頼むでしょう。偏見かもしれませんがそれではうらみつらみは残ってもプラスαはありません。常連の電気屋さんはついでに電球も取り替えてくれます。サービスです。そして、それを見てる常連さんもいる訳で、それがうちのクーラーも頼むよ、につながります。

チェーン店がグローバル化の道を歩んでいるとすれば街の喫茶店は間違いなくガラパゴスです。だから日本なんだ、これでいい、を実感できます。

私の行きつけのその喫茶店はおばさんが一人で切り盛りしています。

はっきり言って儲かっていません。赤字ではないけど多分お小遣い程度の利益でしょう。何の為にやってるの、なんていうのも余計なお世話です。

いつものコーヒーと定食にさえありつければそれで十分です。

竹の子が入ったから煮てみた、これでうれしくなれないはずありません。

スタバもまあ落ち着くけど、机にはコンセントが見えます。みんなパソコンかスマホに夢中です。

いつの間にか改装し、いつものおねえさんはいなくなります。

スプリングの緩んだ椅子のすわり心地はお世辞にもいいとは言えませんが居心地は最高です。「無」の境地です。ボーッとした時間が過ごせます。悩みなどどこかに吹き飛んでしまいます。

でも決して一人じゃなくて、腰が悪いおばさんに代わってコーヒーを運んでくれる誰かがいます。みんなで同じ時間を過ごす「暗黙知」がたまりません。そして、おばさんからはいい話が聞けます。

儲からないけど誰にも頼らず、自分で生きていく、これが大切だ。

景気がいい、悪いは私には関係ない。そんなこと考えたこともない。私は自然に生きる。「こんな効率の悪いお店やめちゃえば、」と言った人もいるけど、その後、その人がどうなったか誰も知らない。そう言ってくれた時はそれが世間の価値観だったのかもしれないけど、そんな世の中の価値観なんてすぐ変わってしまう。そんなものに振りまわされるから悩んじゃうんだよ。

あんたの為、と言われて入った私立中学に馴染めず、不登校になった子が入り浸ってたこともあった。

いい大学を出て大企業に就職することがいい人生とも限らないよね、

そんな堅苦しい価値観なんか飛び越えてもっと自由にやりたいことをやればいい。そんな彼も大検受けて自分の人生歩み始めた。偶然入った喫茶店でそんな話が聞けたら幸せです。

嫌な経験が重なると人はその苦しみの中でしか生きられなくなってしまうようです。そんな時「無」になれるきっかけがあれば、過去を忘れ、未来が開けてくるんじゃないかと。

雑踏の中の日当たりの悪い朽ち果てそうなおばさんのお店。

森の木漏れ日も小鳥のさえずりもないけど、おいしいコーヒーと静かな時間、それだけで十分幸せになれます。

ぜひ、自分の街の居心地のいい喫茶店を見つけ出してください。

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